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保元の乱 その2

保元の乱の経過

1156年(保元元年)7月8日

後白河天皇は源義朝を摂関家本宅の東三条邸に遣わし、氏長者の象徴・朱器台盤を奪わせて邸宅を接収。さらに藤原頼長に対して配流の宣旨を下す。

 

7月9日

崇徳上皇が鳥羽の田中殿を脱出、白河北殿に移り、翌10日にかけて軍を招集。平忠正・長盛父子、源為義・為朝父子らが集まる。一方、上皇方の動きを知った後白河陣営も兵を集め、平清盛・頼盛兄弟、源義朝らが後白河天皇の本拠である高松殿に参集。

 

7月10日夕方〜夜

宇治に逃れていた頼長が白河北殿に到着、崇徳陣営は軍議を開催したが、為義や為朝の献策を頼長がことごとく却下、先制攻撃の機を逃す。一方の後白河陣営は、信西が義朝の夜襲案を採用し、攻撃準備にかかる。

 

7月11日午前4道頃

後白河陣営は3隊に分かれて、白河北殿を奇襲。清盛軍は南西側の為朝軍を攻撃するが、逆に押され、南東側に回って叔父の忠正軍と相対する。清盛軍に代わって義朝軍が為朝軍を攻撃するが、膠着状態に。その後、源頼政軍が来援。

 

7月11日午前8道頃

早期決着を図りたい義朝は、信西の許可を得て白河北殿に放火。進退窮まった崇徳陣営の面々は裏門から脱出して敗走した。
上皇は如意山方面に逃走後、仁和寺に入って出家した。藤原頼長は、父・忠実のいる奈良・興福寺に駆けつけるが、その途中で敵の流れ矢を受けて重傷を負った上、敗戦の報に接した忠実に面会を拒否され、その場で自害(?)。
その他、源為義は比叡山へ、源為朝は近江へ、平忠正は伊勢へ、それぞれ落ちのびた。

 

くり返しになりますが、保元の乱で両軍が矛を交えたのはわずか4時間程度であり、戦闘の規模としてはきわめて小さなものだったと言えます。

保元の乱後

810年の平城上皇の乱以来、死罪は執行されていなかったため、崇徳上皇側の武将の処分はすべて流罪と思われていましたが、これに異議を唱えたのがまたもや信西。少しばかり調子に乗っていますね。信西は「このたびの謀叛は稀なる大事件なれば、厳罰が必要である」として関係者すべての斬首を要求しました。朝廷(後白河天皇?)は信西に押し切られる形で、以下のような処分を下すことになります。

 

おもな敗残者の処分
  • 崇徳上皇…讃岐への流罪
  • 藤原忠実…知足院への隠棲
  • 平氏…平忠正以下11名斬首(うち忠正の子が4名)
  • 源氏…源為義以下6名(うち為義の子が5名)

人数だけ見れば、処刑された武将は平氏の方が多いのですが、源氏はそのほとんどが為義の子(義朝の弟)、本人の資質はともかく源氏としては重要人物であり、これによって源氏の勢力は一挙に衰退することになります。

 

信西はこの他にも摂関家弱体化のためにさまざまな策を講じており、結果として信西−平清盛ラインの政治的基盤が強固になっていきました。ただ、信西の急進的な施策に反対する勢力は藤原信頼を中心に大同団結を図り、平治の乱の背景が形作られていくことになります。
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《続く》

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