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平治の乱 その1

平治の乱 背景

保元の乱はひとまず終息したものの、その結果がまた新たな原因となって平治の乱が起こります。

 

保元の乱を後白河陣営の勝利に導いた殊勲者は源義朝でしたが、戦後の論功行賞において彼は右馬権頭という役職を与えられたに過ぎませんでした。

 

また、官位や役職においても源平の差は歴然としており、源氏では義朝がただ一人、正五位下に昇進しただけでしたが、平氏は、頼盛が従四位下、教盛が正五位下、経盛が従五位上、重盛も正五位下まで昇っています。

 

ただ一方では、このような差が現れるのも致し方ない面もありまして、清盛は乱以前にすでに正四位下・安芸守という地位にあり、従五位下・下野守であった義朝とは地位のうえで大きな差がありました。さらに源氏は、義朝を除く中心メンバーが揃って崇徳陣営に属していたことから、論功行賞に違いが出るのは当然と見ることもできるわけです。

 

もっとも義朝当人にしてみれば、それではおさまりません。『愚管抄』によると、義朝は、源氏の勢力挽回を狙って信西に縁組を申し入れましたが、信西は「我が子は学者であるので、武人の婿には相応しくない」と断っておきながら、同じ武家の平氏と縁組したということで、ますます義朝の恨みは募る結果となってしまいました。

 

さて、義朝と並んで、平治の乱の一方の旗頭となるのが、保元の乱後に台頭してきた藤原信頼です。信頼は、後白河天皇の近臣で摂関家の凋落とともに出世を重ねてきた男ですが、一般には「文にあらず、武にあらず、能もなく芸もなく」と酷評されていました。低い家柄ながら学識と策略でのし上がってきた信西と名門出身の無能者とでは、ウマが合うわけはありませんね。

 

信頼が画策したのは保元の乱の再現でしたが、むろん彼自身にそんな力があるはずもなく、自分と同様に信西と対立している藤原成親や天皇親政派の近臣と手を結び、さらに不遇をかこっている源義朝をたきつけるのが関の山でした。

 

義朝はといえば、源氏再興のために平氏勢力を抑え込む好機として信頼の誘いを了承。両派の対立は一気に武力衝突の様相を帯び、一触即発の空気の中で1159年(平治元年)末を迎えることとなります。

 

反信西派による三条殿襲撃

  1. 12月4日、平清盛が熊野参詣のために六波羅の自邸を出発。
  2. 12月9日夜半、藤原信頼と源義朝らが、後白河上皇の御所・三条殿を急襲。上皇をむりやり連れ出したうえで三条殿に火をかけ、さらに三条殿の西側にあった信西の宿所を襲撃したが、信西はすでに脱出して不在だった。
  3. 信頼と義朝らは後白河上皇を連れて大内裏に入り、上皇を一本御書所に軟禁。内裏にいた二条天皇も幽閉した。
  4. 従者を伴って宇治田原まで逃れた信西は、そこで地面に穴を掘り、中に隠れ潜んだが、従者の一人が捕らえられて居場所が発覚。身柄を押さえられて12月13日に斬首された。

ここまでが平治の乱の前半戦と言えるでしょうか。奇襲が功を奏して信頼・義朝陣営のクーデターはとりあえず成功します。信西の首は義朝のもとに届けられ、獄門にかけられました。保元の乱で300年ぶりに死刑を復活させた信西が、皮肉にも斬首・獄門という形で命を落としたことになります。

 

しかし最大の政敵・信西を討ちとったことで有頂天となった信頼らは、クーデター後の明確な展望を示すことなく、信西憎しのただ一点で大同団結した天皇親政派の面々は失望の念を深めていきます。また、この時点で最大の脅威であるはずの平清盛に対しても、待ち伏せを主張する源義平の進言を退けて、何ら手を打つことはなかったのです。

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