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鹿ヶ谷の陰謀

殿下乗合事件から6年後、後白河法皇の妃・建春門院滋子(平清盛の妻・時子の妹)が亡くなりました。後白河法皇と平清盛の紐帯であった滋子の死は、平氏滅亡の遠因だったと言えなくもありません。

 

当時、後白河法皇と清盛は、滋子の子である高倉天皇の擁立という点で利害が一致していただけで、平氏一門と院近臣の間には官位の昇進や知行国・荘園の獲得などを巡って、鋭い対立があったんですね。

 

滋子の死からわずか1年後に鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、後白河法皇と清盛の提携は崩壊しますが、すでにその半年前に対立の兆しは表面化していました。

 

院近臣の藤原定能と藤原光能が、二人よりも上席にいた清盛の子・知盛を飛び越して蔵人頭に就任したのです。これは、九条兼実が「希代と言うべし」と日記に記したほど異例の人事であり、ここに後白河法皇は公然と清盛との対決姿勢をうち出しました。

 

ところが、後白河法皇に災いが降りかかります。院近臣の藤原師高と延暦寺末寺の白山宮との小競り合いをきっかけとして、延暦寺が師高の配流を訴え、強訴を起こしました。これに対応した平重盛軍が神輿を射て破損させるという失態を犯したため、法皇は重盛軍の当事者を処罰し、さらに藤原師高を尾張に配流するとして延暦寺を宥めます。

 

しかし、その一方で後白河法皇は天台座主の明雲を捕らえ、所領を没収して伊豆への配流を決めました。怒った延暦寺宗徒が護送中の明雲を強引に奪還し、比叡山に逃げ込んだことで、ついに後白河法皇、今風に言えばぶちキレました。

 

平重盛・宗盛の兄弟に招集をかけ、比叡山攻撃の準備を整えるように命じます。

 

さて、福原で急報を受けた平清盛はすぐさま入京し、後白河法皇に面会して説得しますが、法皇の怒りは解けません。延暦寺攻撃はもはや不可避かと思われた矢先、事態は急展開を見せました。

 

1777年(安元3年)6月1日、多田源氏行綱が、東山の山中にある鹿ヶ谷の山荘で平氏打倒の陰謀が計画されていることを、清盛に密告したのです。激怒した清盛によって、延暦寺攻撃はどこかに吹き飛んでしまいました。

 

清盛はすぐさま行動を起こし、陰謀の中心人物である後白河近臣の西光を捕え、拷問にかけて自供をひき出したのちに斬首されました。西光の義理の弟である大納言・藤原成親と、その息子・成経も逮捕され、成親は備前へ、成経は鬼界ヶ島へ配流。そのほか、密議の場を提供していた俊寛や検非違使左衛門尉・平康頼らが一網打尽にされ、多くが配流あるいは解官の処分を受けました。西光の自白によれば、後白河法皇も加担したことになっていますが、清盛は法皇の処分は見送りました。

 

これが鹿ヶ谷の陰謀と呼ばれる事件ですが、西光たちが何の抵抗もなく清盛に捕らえられていることから、延暦寺攻撃を潰すための疑獄事件だとする説もあります。

 

清盛の思惑どおり、延暦寺との衝突は回避され、さらに反平氏の動きを見せていた院近臣の排除には成功しましたが、この一件で後白河法皇−平清盛ラインの亀裂は決定的となり、治承三年の政変につながっていくこととなります。

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